純烈・白川裕二郎の相撲時代とは?四股名「綱ノ富士」と引退理由の真相
白川裕二郎が大相撲の世界へ飛び込んだのは、1995年(平成7年)秋のことでした。名門として知られる朝日山部屋(師匠は元大関・大受)の門を叩いた彼は、本名の白川から四股名「綱ノ富士(つなのふじ)聖司」を名乗り、1995年9月場所で初土俵を踏みました。当時の日本相撲協会の公式記録を紐解くと、入門直後からその素質の高さは際立っていたことが分かります。
力士としては決してアンコ型(肥満型)ではなく、均整の取れたソップ型(筋骨隆々の筋肉質型)に近い体躯でありながら、持ち前の柔軟性と瞬発力、そして強い足腰を武器に白星を積み重ねました。序ノ口、序二段、三段目と各段を瞬く間に駆け上がり、わずか数場所で幕下上位へと昇進を果たします。
白川裕二郎が記録した最高位は「西幕下十三枚目」。大相撲において幕下十五枚目以内は、給与が支給される「関取(十両以上)」の座が手の届く位置にあるエリートゾーンです。この地位まで10代の若さでストレートに近いペースで到達した事実は、当時の相撲関係者や古参ファンの間でも「朝日山部屋に将来の三役を狙える大器が現れた」と大きな話題を呼びました。
当時の報道各社や相撲部屋関係者の記録によると、稽古場での白川は人一倍真面目で、泥にまみれながら黙々と四股を踏み続ける実直な青年だったと伝えられています。恵まれた体躯に甘えることなく、泥臭く相撲道を突き進む姿は、親方衆からも高く評価されていました。