日本のウイスキーの父・竹鶴政孝の生涯|ニッカ誕生と鳥井信治郎との真実
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連続テレビ小説『マッサン』ではドラマチックに脚色された部分もありますが、実生活における妻リタの内助の功と苦難は、ドラマ以上に過酷なものでした。
第二次世界大戦中、敵国人となったリタには特別高等警察(特高)による監視がつきまといました。「屋根に無線機を隠して敵国と通信している」といった根も葉もないスパイ疑惑をかけられ、近隣住民から冷たい視線を浴びることもありました。しかしリタは日本語を流暢に操り、日本の伝統料理や漬物を自ら漬け、頑なに日本国民としての誇りを保ち続けました。
実子に恵まれなかった政孝とリタは、政孝の姉の子(甥)である竹鶴威(たけし)を養子として迎え入れました。威は北海道大学工学部を卒業後、ニッカウヰスキーに入社。政孝の薫陶を受け、のちに同社第4代社長として宮城峡蒸溜所の建設を指揮し、ニッカのブレンディング技術を世界レベルへと引き上げる立役者となりました。
1961年(昭和36年)1月17日、リタは肺結核と肝硬変のため64歳で逝去。政孝の悲嘆は凄まじく、葬儀の後は部屋に閉じこもり、数日間にわたって茫然自失の状態が続いたと関係者は証言しています。リタの遺骨は、余市蒸溜所を見下ろす高台(美園の丘)に埋葬されました。
その後もウイスキー造りに魂を注ぎ続けた政孝は、1979年(昭和54年)8月29日、肺炎のため東京の順天堂医院で85年の生涯を閉じました。最期の言葉は「ウイスキーの原酒はどうなっているか」という仕事への気遣いであったと伝えられています。政孝の亡骸は、余市の丘で先に眠っていた最愛の妻リタの隣に並んで葬られました。