100年前に日本が救ったポーランド孤児の真相と絆
陸軍の輸送協力のもと、ウラジオストクから海を渡った子どもたちが最初に足を踏み入れた日本の地が、福井県の敦賀港(人道の港)でした。船から降り立った孤児たちの姿は、衣服は裂け、栄養失調で骨と皮ばかりに痩せ細り、目だけが虚ろに光る痛ましい状態でした。
敦賀の町民たちはこの見知らぬ異国の子どもたちを温かく迎え入れました。地元の果物屋や菓子店はリンゴや菓子を無償で配り、浴場を開放してシラミに覆われた身体を洗い流し、新しい衣服を用意しました。当時の町民の日記には「言葉は通じなくとも、手を取り合えば涙があふれた」と記録されています。
その後、孤児たちは東京の渋谷にあった日本赤十字社救護所(現・広尾の日本赤十字看護大学敷地など)や大阪の宿舎へと移送され、手厚い治療と給食、教育支援を受けました。看護師たちは自らの感染リスクを顧みず、チフスや腸疾患を患った子どもたちに寄り添い、夜通し看病を続けました。
この献身的な活動に深く心を動かされたのが、大正天皇の后である貞明皇后でした。皇后は東京の宿舎へ度々御使侍従を派遣して果物や玩具を下賜されただけでなく、自ら現地を行啓して子どもたちを直接抱きしめ、励ましの言葉をかけられました。異国の皇族から注がれた母のような愛情は、幼い孤児たちの心に深く刻み込まれることになります。