覚王山日泰寺の真相!唯一の超宗派とタイ国王が贈った仏舎利の謎
覚王山日泰寺の根底にあるのは、19世紀末に起きた仏教学・考古学上の大発見です。1898年(明治31年)、イギリス人駐在官ウィリアム・ペッペが北インドのピープラーワーで古代の仏塔を発掘した際、紀元前3世紀のアショカ王時代以前に遡る壺を発見しました。壺の銘文には古代文字で「釈迦一族が奉納した釈尊の遺骨」と刻まれており、神話の存在とも語られていたお釈迦様が実在の人物であったことを証明する世紀の発見となりました。
遺骨を手に入れたイギリス政府は、当時世界で唯一の仏教独立国であったシャム王国(現タイ)の国王・ラーマ5世(チュラーロンコーン大王)へこれを寄贈します。敬虔な仏教徒であったラーマ5世は、この至宝を独占することをよしとせず、セイロン(スリランカ)やビルマ(ミャンマー)、そして日本を含む世界の仏教徒へ公平に分与することを決定しました。
1900年(明治33年)、仏舎利拝受の特使としてタイへ赴いた日本の仏教各宗派代表団に対し、ラーマ5世から直々に仏舎利の一部と、タイ国宝級の金銅釈迦如来像が託されました。しかし、遺骨が日本に到着した直後、国内では「どこに仏舎利を安置するのか」を巡って京都、東京、奈良などの大都市間で猛烈な誘致合戦が勃発したと記録されています。
その中で名乗りを上げたのが名古屋の財界人や仏教関係者、そして当時の愛知県知事でした。候補地争いが過熱する中、尾張徳川家の旧領地であり、東西の交通の要衝でもあった名古屋が「どの既存本山にも偏らない中立の地」として浮上します。地元官民は熱狂的な誘致運動を展開し、10万坪(約33万平方メートル)にも及ぶ広大な土地を寄進する計画を提示しました。この圧倒的な熱意と公平性が評価され、名古屋・覚王山の地に仏舎利を奉納する新寺院の建立が決定したのです。
こうして1904年(明治37年)、「日暹寺(にっせんじ=日本とシャムの寺)」として開山。その後、1939年の国名変更(シャムからタイへ)を経て、1942年(昭和17年)に現在の「日泰寺」へと改称されました。山号の「覚王山」は、釈尊が「覚りの王」であることに由来しています。