凌遅刑の歴史と真相|なぜ生きたまま肉を削ぐ残虐刑は清末まで続いたのか
「凌遅(りょうち)」という言葉は、本来『荀子』などに登場する「丘陵の斜面を緩やかに下る」様子を表す語言でした。それが転じて、「一気に命を奪わず、ゆっくりと時間をかけて死に向かわせる」という処刑法の名称として定着していきます。
古代中国の法体系において、死刑は本来「斬(斬首)」と「絞(絞首)」が基本でした。漢代の文帝による肉刑(身体を傷つける刑)の廃止以降、国家が科す刑罰は笞・杖・徒・流・死の「五刑」へと洗練されていきます。しかし、唐代末期の節度使の割拠から五代十国の過酷な乱世に至る過程で、軍閥たちは反逆者を威嚇するために法外な私刑を横行させました。この乱世の残酷な慣習が、やがて国家の法制へと逆流することになります。
宋代に入ると、反乱や凶悪犯罪を抑止する目的で凌遅刑が特例的に導入され、南宋の法典『慶元条法事類』などで公認の極刑として明文化されました。続く異民族王朝の元代、漢民族王朝の明代、そして満洲族の清代に至るまで、清朝の基本法典『大清律例』にも最高刑として堂々と位置付けられ続けたのです。
歴代王朝が凌遅刑を手放さなかった最大の理由は、儒教思想における「孝」の観念と密接に結びついています。『孝経』には「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」とあります。生きたまま肉体を刻まれ、骨を断たれ、原型を留めずに解体されることは、肉体的な苦痛にとどまらず、祖先から受け継いだ身体を完全に破壊される「最大の不孝」であり、輪回転生すら拒絶される魂の抹殺を意味していました。国家はこの宗教的・文化的恐怖を、専制権力を維持するための絶対的な抑止力として利用したのです。