なぜ能登から鶴見へ?曹洞宗大本山總持寺の謎と永平寺との違いを解剖
總持寺の歩みを語る上で欠かせないのが、曹洞宗を日本全国へと広めた太祖・瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師の存在です。1321年、瑩山禅師は能登半島(現在の石川県輪島市門前町)にあった諸嶽寺を改め、諸嶽山總持寺を開創しました。徹底した坐禅中心主義を説いた高祖・道元禅師に対し、瑩山禅師は民衆の苦しみに寄り添い、戒律を授け、密教儀礼や地域信仰をも柔軟に取り入れることで、曹洞宗を一大教団へと押し上げた立役者です。
能登の地で570年以上の歴史を紡いできた總持寺に最大の転機が訪れたのは、1898年(明治31年)の大火でした。境内の大部分を焼失するという悲劇に直面した当時の貫首・西有穆山(にしありぼくざん)禅師らは、単なる復興にとどまらない英断を下します。それが、急速に近代化と国際化が進む横浜・鶴見への寺基移転でした。
明治の日本は開国を経て世界へと目を向けていた時代です。東京に近く、海外への玄関口であった横浜港を擁する鶴見の地は、仏教を日本国内のみならず広く海外へ発信する絶好のロケーションでした。こうして1911年(明治44年)に鶴見への移転が完了し、現在の近代的大伽藍の基礎が築かれました。
なお、元の能登の境内は「總持寺祖院」として再建され、今なお根本道場としての風格を保っています。2024年の能登半島地震では甚大な被害を受けましたが、全国の門末寺院や支援者の協力を得ながら、2026年の現在も着実な復興作業が進められています。