山梨の旧国名「甲斐国」の謎|なぜ甲斐や甲府ではなく山梨県になったのか

山梨の旧国名「甲斐国」の謎|なぜ甲斐や甲府ではなく山梨県になったのかに関する最新のニュースを速報でお届けします。関心のある方は必見です。

山梨の歴史を語るうえで外せないのが、奈良時代の律令制によって定められた令制国一覧における「甲斐国」の存在です。甲斐国は五畿七道のうち「東海道」に属する一国として位置づけられ、畿内から見ると山を越えた東方の要衝でした。

では、そもそも「甲斐」という言葉はどこから生まれたのでしょうか。歴史言語学や地名考証の研究において、甲斐国の由来にはいくつかの有力な説が存在します。古くから知られているのは、周囲を険しい名峰に囲まれた地形を表す「山の間(やまのあひ)」が転じて「かひ」になったとする山間(やまあい)説です。山々に抱かれた盆地という特異な地理的条件が、そのまま国の呼称になったという見立ては極めて自然です。また、信濃や駿河、武蔵、相模といった隣国との境界に位置することから「境(さかい)」が語源となったとする境(かい)説も有力視されています。

平安時代末期に入ると、清和源氏の流れを汲む新羅三郎義光の子孫が甲斐盆地へ土着し、「甲斐源氏」が台頭します。その武勇は鎌倉幕府の成立に大きく貢献し、やがて戦国時代には希代の名将・武田信玄(晴信)へと結実しました。信玄公は釜無川の氾濫を抑える「信玄堤」の築造による治水事業、国内初の大規模金貨である「甲州金」の鋳造、さらに独自の分国法『甲州法度之次第』の制定など、卓越した領国経営を推し進めました。

この武田氏の圧倒的な統治力と軍事力によって、甲斐国は「甲州」の通称とともに天下にその武名を轟かせました。信玄公が築いた軍用路や物流網は、江戸時代に入って五街道の一つである「甲州街道」へと発展し、甲州は江戸防衛の西の要所として幕府直轄地(天領)や甲府藩の手によって大切に管理されていくことになります。

関連記事