田中角栄の懐刀・早坂茂三の生涯|電撃解任の真相と不滅の人間学
23年におよぶ蜜月関係は、あまりにも唐突かつ残酷な形で幕を閉じました。1985年(昭和60年)2月、竹下登らが田中派の内部クーデターとも言える「創政会」を旗揚げし、田中派支配に激震が走ります。そのわずか数週間後、田中角栄は脳梗塞で倒れ、言語機能と政治生命を事実上失いました。
権力の真空地帯となった目白の田中邸で起きたのは、主を失った側近たちと家族による熾烈な主導権争いでした。早坂が政界を去らざるを得なかった背景には、以下の決定的な要因が存在します。
第一に、角栄の長女である田中眞紀子氏との深刻な対立です。病に倒れた父親の権力と財産を守ろうとする家族側と、政治集団としての田中派の維持を図ろうとする早坂ら秘書団の間で、決定的な方針の不一致が生じました。眞紀子氏は秘書団を目白の私邸から完全に排除し、外部との接触を遮断する措置をとります。
第二に、竹下派結成をめぐる政治力学の激変です。早坂自身は角栄への絶対的な忠誠を誓い続けていましたが、田中派所属議員の大多数はすでに竹下登のもとへ雪崩を打って移動していました。主君が倒れ、派閥が空中分解していくなかで、早坂の政治的基盤もまた急速に失われていったのです。
1985年秋、早坂は田中事務所から一方的な解任通告を受け、23年間身を捧げた「角栄の城」を追われました。退職金も満足に支払われないままの電撃追放であり、病床の角栄と二度と言葉を交わすことすら許されない非情な幕切れでした。