ザ・ドリフターズ歴代メンバーの現在とは?脱退・加入の真相と知られざる絆
ドリフターズの歴史における最大の転換点といえば、1974年3月の荒井注さんの脱退と、直後の志村けんさんの正式加入です。当時、日本中のお茶の間を驚かせたこの交代劇の背景には、単なるタレントの入れ替えにとどまらない、壮絶な現場の現実がありました。
「体力の限界」という言葉の裏にあった真実
荒井注さんは脱退記者会見で「体力の限界」を理由に挙げました。当時45歳だった荒井さんは、いかりや長介氏(当時42歳)よりも3歳年上であり、加藤茶氏とは15歳もの年齢差がありました。毎週土曜日の生放送であった『8時だョ!全員集合』は、緻密に計算されたセット転倒や激しいアクションを伴う過酷な肉体労働でした。
関係者の回想録や当時の取材証言によると、毎週木曜・金曜の深夜に及ぶネタ会議とリハーサル、そして本番の極度の緊張感に対し、荒井さんは精神的・肉体的に完全に擦り切れていたとされます。また、もともと文学青年気質で英語も堪能だった荒井さんは、「これ以上、大勢の中でドタバタ喜劇を続けるのは自分の芸道ではない」という強い自負を抱いていました。不仲による喧嘩別れと噂されたこともありましたが、実際はいかりや氏をはじめとするメンバー全員がその苦悩を理解した上での「円満脱退」でした。
付き人からスターへ駆け上がった志村けんの勝負手
荒井注さんの脱退が決まる直前、いかりや長介氏は後任の選定に頭を悩ませていました。外部の有名コメディアンを引き抜く案も浮上する中、白羽の矢が立ったのが、高校卒業前の1968年からいかりや氏の自宅に住み込みで付き人を務めていた志村けんさんでした。
志村さんは一度ドリフの付き人を辞めてお笑いコンビ「マックボンボン」を結成し、芸能界デビューを果たしたものの挫折。再びドリフの付き人・見習いとして戻ってきた苦労人でした。当時の志村さんは24歳。加藤茶さんの弟分としてコントの動きを完全に身体に叩き込んでおり、いかりや氏が求める「ドリフの呼吸」を誰よりも熟知していたのです。
しかし、加入当初は「荒井注のほうが面白かった」と世間から冷酷なバッシングを浴び、スランプに陥ります。その重圧を打ち破ったのが、1976年に披露された「東村山音頭」でした。自身の故郷のローカルネタを卓越したリズム感で歌い上げるコントが爆発的なヒットを記録し、志村さんは一躍ドリフのメインストリームへと駆け上がったのです。
見習い期間を支えた「6人目のドリフ」すわ親治の存在
志村けんさんの加入と同時期に語り落としてはならないのが、準メンバーとして長年グループを支えたすわ親治(旧芸名:すわしんじ)さんの存在です。すわさんは1972年に入門し、志村さんの後輩付き人として過酷な下積みを経験しました。
『8時だョ!全員集合』では、奇妙な奇声や体を張った怪奇コントで強烈なインパクトを残し、オープニングの踊りやセット転換の助演としても欠かせない戦力でした。一時は荒井注さんの脱退時に志村さんと並んで新メンバー候補に挙がったものの、いかりや氏の「5人のバランスを崩したくない」という判断から「見習い」のポジションを継続。1985年の番組終了期まで約13年間にわたる献身を続け、現在も舞台演劇界でその類まれな身体表現を後進に伝えています。