昭和の妖怪・岸信介の真実|満州・A級戦犯から安保改定と現代政治の源流
岸信介がなぜ「昭和の妖怪」と呼ばれるに至ったのか。その最初の舞台となったのは、1930年代の中国大陸に建国された満州国でした。東京帝国大学法学部を首席で卒業後、農商務省に入省した岸は、国家が産業を一元的にコントロールする計画経済思想に傾倒。「革新官僚」のリーダーとして頭角を現すと、1936年に満州国へ渡り、総務庁次長として事実上の最高権力者として君臨しました。
当時の満州国において、軍部の東條英機、満州重工業開発の鮎川義介、関東軍参謀副長兼務の星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右らとともに「弐キ参スケ」と称され、軍・財・官を自在に操る剛腕を発揮。「満州の妖怪」と恐れられたこの時期の経験が、国家権力を動かすプラグマティズムと強固な人脈の土台となりました。その後、東條英機内閣の商工大臣として太平洋戦争の開戦詔書に署名するに至ります。
しかし、1944年のサイパン陥落を機に、戦争継続を主張する東條英機首相に対して公然と退陣を迫り、閣内不一致を起こして東條内閣を総辞職に追い込みました。この「東條との決裂」が、戦後の岸の運命を大きく分ける契機となります。
巣鴨プリズンからの不起訴・釈放とCIA関与疑惑の真相
1945年8月の敗戦に伴い、岸はA級戦犯容疑者として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に逮捕され、巣鴨プリズンに約3年3カ月収監されました。東條ら7名が処刑された翌日の1948年12月24日、岸は不起訴処分となり劇的な釈放を遂げます。
この釈放理由には、大きく分けて2つの決定的な背景が存在します。
- 東條内閣打倒の実績:開戦時の閣僚でありながら、大戦末期に東條首相と激しく対立して倒閣を主導した事実が、GHQによる戦争責任の追及において免責的な要素として働いたこと。
- 米国の冷戦戦略転換(逆コース):1940年代後半、米ソ対立の激化に伴い、米国は日本の非軍事化から「反共の防波堤」への再構築へと方針を大転換。卓越した行政手腕と強烈な反共思想を持つ岸の政治力が不可欠と判断されたこと。
後年に機密解除された米国務省およびCIA(中央情報局)の公文書群により、冷戦期において米情報機関が岸をはじめとする自民党幹部に秘密資金を提供し、日本を西側陣営に強固に繋ぎ止める工作を行っていた実態が報じられました。岸自身が単なる操り人形だったわけではなく、自らの「自主防衛・自主憲法制定」という国家目標を達成するために米国を利用しようとした、したたかな政治的リアリズムがそこにはありました。