中曽根康弘の評価はなぜ割れるのか?功績と批判から読み解く光と影
中曽根政治を語る上で欠かせないのが、劇的な変貌を遂げた対米外交です。1983年1月、首相就任直後に訪米した中曽根氏は、当時のロナルド・レーガン米大統領と首脳同士が互いをファーストネームで呼び合う「ロン・ヤス関係」を構築しました。首脳同士の密接な個人的関係をテコに国際社会での存在感を誇示する手法は、従来の日本外交には見られなかった鮮烈なスタイルでした。
当時、冷戦下の西側陣営において日本は「経済的繁栄を謳歌しながら防衛負担を回避するフリーライダー」と激しい非難を浴びていました。中曽根氏は防衛費増額やシーレーン防衛の明確化を打ち出し、サミット(主要国首脳会議)でも「西側の一員」として明確に自己主張を行いました。中曽根康弘に対する海外の評価は極めて高く、タイム誌の表紙を飾るなど「頼れる同盟国リーダー」として認知されたのです。
しかし、国内ではその過激とも取れる言動が激しい議論を巻き起こしました。代表例が訪米時のインタビューを端緒とする「不沈空母」発言です。
ワシントン・ポスト紙のドン・オーバードーファー記者との朝食会で、中曽根氏はソ連の脅威に対抗するため「日本列島を巨大な要塞として位置づける」趣旨を語りました。同紙はこれを「日本列島を不沈空母(unsinkable aircraft carrier)のように防衛する」と大々的に報じました。帰国後の国会で野党から「日本を米国の戦争に巻き込む気か」と集中砲火を浴びた中曽根氏は、自著や答弁で「海峡封鎖や防空体制の強化を比喩的に語ったものであり、直訳されたニュアンスとは隔たりがある」と釈明に追われました。言葉の真意はどうあれ、この発言は日本が専守防衛の枠組みを踏み越えるのではないかという強い不信感を植え付けました。
さらに、1985年8月15日には内閣総理大臣として戦後初となる「靖国神社公式参拝」を敢行しました。これに対し中国や韓国から猛烈な反発が沸き起こり、アジア諸国との外交摩擦が急激に深刻化しました。当時の中国・胡耀邦総書記の立場が国内の対日強硬派によって揺らいだ現実を直視した中曽根氏は、翌年から公式参拝の見送りを余儀なくされました。この一連の動きは、歴史認識とアジア外交のバランスという、令和の今も解決されていない重い課題を浮き彫りにした瞬間でした。