創価学会と公明党の関係とは?政教分離の真相と自公連立の今を徹底解説

創価学会と公明党の関係とは?政教分離の真相と自公連立の今を徹底解説の背景について、分かりやすい解説を基に徹底解説します。

では、なぜ創価学会は政党の結成へと至ったのでしょうか。その歩みを振り返るには、1950年代から1960年代にかけての昭和の政治史を紐解く必要があります。

第2代会長・戸田城聖氏の時代、創価学会は「民衆救済」を掲げて1955年の統一地方選挙に学会員を無所属で擁立し、政界進出の第一歩を踏み出しました。当時、既成政党が資本家や大企業(自民党)、あるいは労働組合(社会党)の利害を代表していたのに対し、生活困窮者や中小零細業者、女性層といった「政治から取り残された庶民」の声を代弁する存在として支持を急拡大させます。

その後、第3代会長に就任した池田大作氏(後の名誉会長)の主導により、1964年11月に「公明党」が結党されました。結党大会で池田氏が掲げたスローガンが、有名な「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」という立党精神です。

しかし、結党当初は宗教的理念である「王仏冥合(仏法の精神を社会に具現化すること)」と政治目的の境界が曖昧であったため、他党や世論から「宗教による政治支配ではないか」という激しい批判を受けることになります。特に1969年から1970年にかけて起きた「言論出版妨害問題」は、学会と公明党のあり方を根本から見直す契機となりました。

1970年5月、池田大作氏は創価学会本部総会において「政教分離に関する宣言」を発表。公明党議員の学会役職兼任を全面廃止し、党規約から宗教的用語を排除、組織・人事・財務の完全分離を内外に誓約しました。これ以降、公明党は「中道・福祉・平和」を旗印とする一般的な世俗政党としての性格を確立していくことになります。

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