家康と信長はなぜ裏切らなかった?清洲同盟の真実と築山殿事件の闇

家康と信長はなぜ裏切らなかった?清洲同盟の真実と築山殿事件の闇について押さえておきたい 理由を分かりやすく解説いたします。

天正10年(1582年)5月、武田家を滅亡させた家康は、信長の招きで安土城を訪れます。このとき信長から家康をもてなす饗応役に任じられたのが明智光秀でした。この安土城饗応の経緯において光秀が信長から叱責を受けたことが、本能寺の変の引き金になったという逸話は広く知られています。

かつて小説やドラマで取り沙汰された「本能寺の変における家康黒幕説」ですが、歴史学の現場ではほぼ否定されています。信長が討たれた当時、家康はわずかな供回りを連れて堺を遊学中であり、自らの命すら危うい状況(伊賀越え)に追い込まれました。

家康にとって信長は、強大な後ろ盾であると同時に、自らの領国を保証してくれる存在でした。信長の急死は家康にとって最大の計算外であり、黒幕として関与する動機は極めて薄かったと結論づけられています。

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