尾崎行雄はなぜ憲政の神様なのか?63年連続当選の真相と波乱の生涯

尾崎行雄はなぜ憲政の神様なのか?63年連続当選の真相と波乱の生涯の重要なポイントについて、分かりやすい解説を基に徹底解説します。

Q1:「咢堂(がくどう)」という号の由来は何ですか?
A1:1898年、文部大臣時代に「日本で共和制を行ったら大統領には三井や三菱の総帥がなるだろう」と演説したことが曲解され、激しい批判を浴びて辞任に追い込まれた「共和演説事件」がきっかけです。この時、自身が口禍(こうか:言葉による災い)を受けたことから、「口を大きく開けて正論を直言する」という意味を込め、顎(あご)の字を由来として「咢堂」と号しました。

Q2:なぜ戦時中の厳しい言論統制下でも暗殺や落選を免れたのですか?
A2:地元・三重県の有権者との間に、政党や利権を超えた絶対的な信頼関係が築かれていたためです。また、尾崎自身が私利私欲を一切持たず、清貧を貫き通していたため、政敵や特高警察でさえ金銭スキャンダルなどで失脚させることができませんでした。暗殺未遂にも幾度となく遭いましたが、豪胆な態度で暴漢に対峙した逸話が残っています。

Q3:尾崎行雄の記念館はどこで見学できますか?
A3:生誕の地である神奈川県相模原市緑区の「尾崎咢堂記念館」と、政治活動の強固な地盤であった三重県伊勢市の「伊勢市尾崎咢堂記念館」の2箇所が代表的です。演説の肉声レコードや直筆の書、日米桜寄贈に関する貴重な歴史資料が常設展示されています。

Q4:犬養毅とは親友だったのに、晩年はなぜ距離ができたのですか?
A4:犬養毅が政友会の総裁に就任し、政権奪取のために政党利害や妥協を受け入れる道を選んだのに対し、尾崎は「政党の腐敗や軍部への妥協」を徹底的に嫌い、完全な無所属として議会改革を叫ぶ道を選んだためです。手法は分かれましたが、議会政治を尊ぶ根底の志においては終生互いを認め合っていました。

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